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山田作喜子さん、絵梨奈さん
山長水産
東伊豆町民インタビュー NO.70 山長水産(山田作喜子さん、絵梨奈さん)前編
本日は稲取のひもの屋さんである山長水産を営まれている、山田作喜子さん、絵梨奈さん親子にインタビューさせていただきます!
山長水産さんのこれまでや地元である東伊豆に対してのお考えなどについて伺わせていただこうと思います!
まず最初ですが、山長水産さんはいつから稲取にあるお店なのかお教えいただいてもよろしいでしょうか?
よろしくお願いします。
山長水産は現在はご紹介いただいたように、金め鯛味噌漬けや干物を販売するお店ですが、江戸時代には、伊豆の築城石や海産物を江戸に運ぶおしょくり船(押送船)をやっていたみたいです。
当時は伊豆の石やお魚を反物などと物々交換し、持って帰ってきた物品を稲取の村の人たちに振る舞っていたていたという記録が残っています。
国道が開通してからは3輪のトラックで運送業を営んだり、昭和53年に発生した大島沖の地震で建物が壊れてやめてしまったのですが、この場所で民宿やお魚屋さんを営んでいました。
水産加工の仕事を始めてからは70年くらい経っていたのですが、大島沖の地震以降から今の形態でお店をやっています。
そうそう、もともとは長二郎丸という屋号だったのを、私のお父さんが“山長水産”に改名しました。
ご先祖様の山田長次郎さんの名前をいただいたようです。
今よりももっと港町の風情に溢れた町だったんですね!
そういえばもともと稲取の湾は砂浜だったということも聞いたことがありました!
そうなんですそうなんです!
私の子供の頃はまだ砂が残っていて、少し掘れば貝殻が出てくるような時期があったことを覚えています!
海辺にはお寿司屋さんなどの飲食店も3.4軒あって夕暮れ時には近隣の旅館へお勤めに出られる髪を結った芸者さんたちが海辺を歩いているというような華やかな温泉街の雰囲気を持っていました。
近所には銭湯やかき氷屋さんもあって、かき氷屋さんでは、シロップと氷を割ったドリンクを10円とかで売っていて、ラーメン屋さんもあったので銭湯から上がったあとの楽しみがたくさんありました!
町中が遊び場で、近所の人達に見守られながら町全体で育ててもらった感覚がありますね。
稲取には造船所もあったり、旅館やお店も今よりもたくさんあって、職人さんたちが多く住む町でもありました。
そんな町だったので、ものが壊れたりしても隣近所の人がどんなものでもすぐに直してくれていました。
お教えいただいたようなかつての稲取での暮らしにとても憧れが湧きました!!
山長水産さんは今の干物屋さんのお仕事を始められて70年ほど経つというお話でしたが、昔から今と変わらないような金め鯛味噌漬けなどの商品のラインナップでお店を営業されていたのでしょうか?
昔は干物もやっていたんですが、鮮魚を専門で販売しているお店だったんです。
父が漁業権も持っていたので捕れた魚を市場で買い付けて、店頭に並べてその場で開いたり、フライにしたり提供していて、お皿持ってきてもらってそれに盛り付けるなどのサービスもやっており、2.3階でご宿泊いただいていたお客様にお刺身をお出しするということもやっていました。
徐々に食品衛生法が厳しくなってきて、魚を捌いてそのままお渡しということができなくなってしまったりと、時代とともにもともと可能だったサービス提供が難しくなっていき、
手間なく色々なものが買えてしまうスーパーもできて、個人商店を営むこと自体が難しくなっていったんですよね。
当時はホテルに魚を卸すという仕事が中心だったので、地震のときに観光に頼らない生活をしていかないといけないね、となって、メインだった鮮魚販売や宿泊の事業を水産加工業に取りまとめていくことにしました。
この土地はもちろん観光地なのでその地の利を最大限活かすという点では引き続きお仕事を成り立たせられるよう、宿泊施設の集客に依存しない形態で事業を再編されたということなんですね!
前半は山長水産さんと稲取の変遷についてを集中的に伺ってまいりました。
作喜子さんの幼少時代のお話や以前の山長水産さんのお仕事のお話から、当時の稲取の賑わいを鮮明に想像することができました!
後半はそんな山長水産さんのお店だったりお二人のことを深堀りさせていただけたらと思っております!